闇の中に誘うもの

 女は静かに笑った。
 そして言った。「お久しぶりね。」
 その口調は場違いなほどに穏やかだった。
 妖魅が出歩く危険な夜には場違いなほどに。

「会いたかったわ……私は、貴方に会いたかった。」
 女は笑みを浮かべて、海に歩み寄った。
 海は無言で女をにらみつけると、イメージの中でボンベの栓を緩めた。
 左手から炎が迸り、それは女へと向かって放射される。

 しかし、女は右手を軽く払っただけで、その炎を四散させてしまった。
 海は力の反動を感じた。
 まるで、反対側から力を加えられたから中身の噴出を止められたかのように感じ、炎が出せなくなった。
「怖がらなくてもいいのよ、穂照 海。」
 女の声はあくまで優しかった。
 だが、海は気を許さなかった。
 右手に握った解体ナイフに意識を集中させる。
 それは威圧感に抗うように、刀身を緋色に染めた。
 熱を帯びた刃が振るわれる。
 しかし、それはまるで軌跡が読まれているように避けられる。
 闇を裂いて、緋色の弧が幾度も描かれるが、それは敵を傷つけることはない。
 ふいに女が突然近づいた。
 ナイフを持った右腕が握られる。
 同時に女の顔は、海の顔に近づき……

 そのまま愛おしげに、唇が重ねられた。

 ナイフが地面に落ちて音を立てた。
 ふたりは至近距離で、お互いを見詰め合う。
 その顔は、意外なほどに若々しく、人間離れした白さと紅い髪、血のような瞳を除けば、二十歳か、それ以前の、若く美しい西洋人女性のそれだ。
 海は、陶器のように白い首筋に赤い筋があるのを見た。ちょうど首を鋭利な刃物で切ったように。
 女吸血鬼は海の頬を両手でつかみ、長いくちづけを交わした。
 海は全身から力が抜けるのを感じていた。それは快楽もあったが、不可解な気持ちと、恐怖からくるものであった。
「あなたが、欲しい。」
 女は顔を離すと、海の耳元でささやいた。
 突如として、海の首筋に痛みが走った。
 歯がたてられ、吸われる感覚があり……だが吸われた血は、すぐに吐き出された。
「血は私と同じ」
 ヴァンパイアは生物の血液を啜ることで、生命維持エネルギーを得るが、それはヴァンパイアとダンピールの血からでは得られない。
 海は彼女の言葉を聞いて、自分は人でなくなってしまったのだと実感した。
「なのに、どうして心は人のまま?」
 女は海を愛しげに抱きしめる。
 海は女に身をゆだねるどころか、抵抗した。
 だが、女の力は圧倒的に海を上回る。
 ダークネスの力は、基本的に殲滅者を遥かに上回るのだ。
「あなたはどうして、人のままでいられるの?」
 そう聞いた女の言葉には、切なげな響きがあった。
「すべてを亡くしたのに。居場所を失ったのに。
 あなたの大切な人も、あなたを大切に思う人も、もうこの世にはいないのに。
 すでに人ではない力すら、扱えるというのに。……なぜ、人のままであろうと願うの?」
 女が一瞬、迷うのを感じた。
 海は女の腕の中からすり抜ける。
「僕は人だ。人であることを捨てはしない」
 そう言ってから、地面に落ちた解体ナイフを再び拾った。
 刃はもう一度、その存在を誇示するかのように緋色に光った。
 その瞬間、巨大な逆さ十字が、海の視界に飛び込んで来た。
 無数の刃物に切り裂かれるような鋭い衝撃が走り、後方へと吹き飛ぶ。 
 仰向けに倒れた海に、女はゆっくりと近寄った。
「あなたはすでに人ではない。
 私と同じ存在でもない、中途半端な存在。
"灼滅者"などと呼ばれてはいるけれど、実態はダークネスのなりそこないにすぎないのよ。
 そんな貴方が、懸命に人であろうとしたところで……無駄な足掻きでしかないわ。」
「それでも、僕は!」
 海の全身が、閃光のごとく輝いた。
「僕は僕であり続ける。
 何を失おうとも、人としての証だけは守り続ける。これは最後に残された、僕が僕である証なんだ。だからお前の思い通りにはならない。
 呪われた運命など、否定する!」
 その右手が突き出されると、闇夜を切り裂いて火が走った。
……だが、その迸りも女の手のひらに止められた。
「……馬鹿な人」
 闇夜に、女の艶やかな笑い声が響き渡った。
「良いわ。そうして力を使って抗うことは、すでに人でない証。」
 月光に照らされて、陶器のような白い肌が妖しく光る。
 女は笑った。それはさながら年頃の娘が嬉しそうに笑うのに似ていたが、抱かせる印象は驚くほどに違う。異界の美とも言うべきものであった。
 海は反対に、嫌悪に顔を歪めた。
「力に頼るというなら、もう一度絶望させてあげましょう……あの時のように」
 女のその言葉を聞いた海の中で、何かが弾けた。
 ナイフを握りなおすと、それは激しく輝く。怒涛の如き勢いで、刃を繰り出した。
「あなたが頼りとするものは、すべて失われるわ」
 女ヴァンパイアは言葉だけを残して後方に下がり、それを巧みに避けた。何度も刃は繰り出されるが、それはことごとくかわされる。
「何を得ても同じ」
 一瞬の隙を突いて、女は側面にまわりこんだ。右手が突き出され、触れただけで海は吹き飛ばされる。
「何を信じても同じ」
 地面に倒れ付した海の眼前に、瞬時に女が現れる。
「弱者であることからは逃れられない。」
 凄まじい力で持ち上げられ、投げ飛ばされた。公園の木に激突する。ほぼ同時に、その首に手がかけられた。
「そうして終わらない悪夢をいつまでも見続けるの。」
 女は顔を寄せた。
「まだ悪夢を見続けたいの? 私と一緒に来れば、解放されるのよ?」
 海は苦痛に顔を歪めながらも、首を横に振った。
「なら全てを奪ってあげる。私のことが受け入れられないのなら、それ以外の全てを壊すわ。
 聞きなさい、いくらあなたが武蔵坂学園に入っても、その場所はやがて消えうせるわ。
 貴方達がいくら集まろうと、ダークネスには勝てない。
 サイキックアブソーバーとて、すべてのダークネスを掃討することはできないわ。
 私たちは誰の心の中にも居るのだから。
 やがて誰も働くことのできない夜が来る。
 希望は、潰えるのよ。
 あなたが人であろうとする限り苦しみは続く。なぜなら、あなたの半分は欲しているからよ。墜ちることをね……。
 けれど、その半面で人であろうとする。
 相反する二つの力がせめぎあっているから、苦しいの。
 人と闇(ダークネス)の境界で留まっている、境界人(マージナル・マン)。 
 それは賢いあり方とは言えないわ。
 愚かなことなのよ?
 だから、闇に墜ちなさい。拒む術なんてないのよ?
 さあ……私のもとへ……」
 女は海の衣服に手をかけた。
「ああ……海……」
 海の白い肌があらわになる。
 女は艶やかなため息を漏らした。自分もまた、衣服を取り払う。
 女の肉体は、海の肉体を激しく求めた。
 
 

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 


「……そろそろ頃合ね」
 東の空が白く染まり始めていた。
 ふたりの夜は長く、そして女は求められるだけ海の肉体をものにした。
「楽しかったわ。けれど……」
 女の顔は寂しげであった。
「あなたの魂は、私を受け入れない…………」
 海は一晩中、何も言葉を発さなかった。
「でも、忘れないで。あなたの中には、すでに私が居る。」
 それから女は長いくちづけをした。
「私は、マルグレーテ。教えておくわ。
 いつか親しみを込めて呼んでくれるように。」
 やがて日光が増して、女の姿に重なった。
「またいずれ、会いに来るわ。」
 日光に照らされて影が消えるように、マルグレーテと名乗った女の姿はかき消えた。
……井の頭公園には海だけが残された。
 呆然とした意識の中、魅入るように、登る朝日を見ていた。

「…諦めない」

 かすかな声で、海は呟いた。
 古代では夕に日が沈んでも、翌朝にまた登る様子に、永遠を見たという。
 いずれ夜は明ける。
 どれだけ人の心が"闇"に脅かされようと、いつかは……。