対談 灼滅者 × ダークネス

 頬を殴られた。
 間髪を入れず、怒声が飛ぶ。
「何故あそこで止めを刺さなかった?」
 海は栃木県に現れたと言うダークネス討伐の作戦に参加していた。
 敵は羅刹だった。若い少女の姿をしていた。羅刹となってまだ日が浅く、そのため灼滅者8人で充分に対応できる相手と想定されていた。
 しかし、結果的に勝利したものの、二人の重傷者が出てしまった。原因は、連携が繋がらなかったことにあった。武蔵坂学園の灼滅者達は着実に打撃を与え、優勢に戦いを進めていた。一斉攻撃の好機を掴み、そこで一気に畳み掛ければ勝負は決していた所だった。
 しかし、海は味方二人の攻撃が決まり、攻撃の絶好の機会を得た所に、攻撃をしなかった。
 逆に隙を作った海に、羅刹は反撃した。必殺の一撃だった。闇堕ちして日が浅いとは言え、その力は灼滅者をはるかに上回っていた。まともに喰らえば、海は即死していただろう。割って入ってくれた仲間のおかげで海は直撃を免れたが、その仲間は重傷を負った。
 もう一人が羅刹に攻撃を仕掛けたが、体制を整えた羅刹に決定打を与えられず、さらなる反撃の機会を許してしまった。捨て身の攻撃に出た一人が重傷を負ったが、かれが羅刹の注意を引きつけたおかげで、再び攻勢に回った灼滅者達は何とか勝利することができた。
 とは言え、想定を遥かに上回る被害を受けたことも事実だった。その責任が海にあると判断されたのは、自然な事だった。
「お前のミスで二人の重傷者が出てしまったんだ。この責任はどう取る」
 年長の灼滅者が、殴られた頬をさすっている海を叱責する。
「相手が少女の姿をしていたから可哀想だとでも思ったのか?」
 そう繋がれた言葉に海は肯定も否定も表さなかったが、内心は図星だった。
「あれはお前より遥かに力のある危険な相手なんだ。灼滅者なら羅刹のことぐらい知っていなければいけないだろう」
「……すいませんでした」
 海は、やっとの思いで声を出した。
「まったく、遠足に来てるんじゃないんだぞ。俺達は灼滅者なんだ……ダークネスに対応できるのは、俺達しかいないんだ。その自覚がないなら、戦うべきじゃないんだよ」

 他には誰も何も言わなかった。
 無言のまま、武蔵坂学園へと送迎するバスに乗りこんでいく。重傷を負ったものは、五体満足な仲間に肩を貸され、痛みのせいでぎこちない動きでバスに乗り込む。海はその様子を見て、いたたまれない気持ちになった。

 常人には無い力に目覚め、邪悪なダークネスに対抗する灼滅者たち……。
 紛れもなく英雄的な存在だったが、しかし、その現実は厳しかった。

 灼滅者たちを乗せたバスは、東関東自動車道を東京へと向けて走っていた。疲れきって眠るもの、車窓から外を眺めるもの、言葉を交わすもの、それぞれが思い思いの時を過ごしていた。
 しかし、突如としてしばしの平穏は破られた。
 轟音が響き、ぐらりと床が揺らいだ。バスの横っ腹に、暴走したトラックが突っ込んできたのだ。凄まじい重力がかかり、乗客達の体が軽々と吹き飛ばされる。
 ちょうどそこで道路は崖に面しており、バスはガードレールを突き破って、崖を滑り落ちていった……。 
 
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 どれほど経ったか、海は目を覚ました。
 奇妙な部屋だった。
 天井と床が黒一色で、壁は白一色。窓がついているが、外は真っ黒で何も見えない。
 誰かがピアノでバイエルを弾いている。部屋の真ん中にはピアノがあった。ピアノを弾いているのは、黒い猫だった。
 それが、海が目覚めて最初に見た風景だった。
  
「目が覚めたかね。」
 猫が、海に向かって話しかけていた。
「ふむ、なにやら驚いた顔をしているようだが、私はどのような姿に見えるかね?」
 答えを待たずに、猫は続けた。
「ここは君のソウルボードだ。私の外観は君の印象そのままを表した姿になる。私がそのようにした」
「君のソウルボード……ということは、貴方は僕のソウルボードにもともといなかった存在、つまり侵入者ということですか」
 海はその猫に対して、無意識のうちに敬語で話していた。年上の人のような、敬意を払わなければいけないと感じさせる一種の威圧感のようなものを、猫から感じたからだ。
「正解だ。私は君のソウルボードに侵入したということになる。
 ……私は一般的にシャドウと呼ばれている存在だ。君なら知っているだろう?」
「黒猫がシャドウだなんて冗談がきつい」
 それを聞いた海は身構えた。シャドウだと言った猫は、その必要はないというふうに量前足をひらひらと振って見せた。
「ふむ黒猫か、不吉の象徴というわけだな。君は最初から私を無意識のうちに警戒していたようだね。さすがは戦士なだけある」
 余裕のある口調でそう言った猫に対し、海はゆっくりと猫に近寄った。
 近寄って……頭を撫でた。
 心地良い毛の感触、猫の温もりが手に伝わってくる。掌で撫でられると、猫は目を細め、喉を鳴らし始めた。

「やめたまえ」
「すみません」
 言葉だけのおざなりな謝罪を返し、手を引っ込める。
「君は何か、自分の部屋に猫が遊びに来て欲しいという願望でも持っているのかな」
「いや……よくわかりませんが、そんな気も……」
「あくまでも平常心を装うつもりか。だが私は知っているぞ、君が終始何かに怯えていることを」
 その言葉は核心を突いたものであった。海は返事を返さなかった。その通りだった……常にあの影を恐れている。目の前にいるシャドウよりも、あれが今も自分を見ているのではないかという幻想の方が恐ろしいのだ。
 マルグレーテ。
 常に自分を狙っているダークネスのことが。
「君は闇堕ちすることを恐れている。違うか?」
「何が違うか? ですか。ダークネスならばわかるでしょう」
「人の闇堕ちに対する感情は千差万別だ。君には君の感じ方があるだろう」
 海は、動揺を隠せていなかった。自然と動悸が早くなっている。ダークネスに自分の弱味を握られる……その事が恐ろしく思えた。
「私がこれからする話が、君の恐れを払拭する助けになればいいのだが」
「何がです」
「聞いてくれるかね? 君は紳士だから私の話を遮ったりはしないだろう」
 海は確かに動かなかった。しかしそれは礼儀に叶っているからという理由からではなく、一人でシャドウに不用意に仕掛けるのは危険だと判断したからだ。
「そういう事を言われても嬉しくありませんよ。とくに自分はシャドウだと言っている相手には」
「まあそう言うな。では遮られる前に質問しよう。

『ダークネス』とは何かね?」

 海は質問されたことで、質問の答えを自然に考え始めた。何しろその問いは、始めてダークネスのことを知った時から考えていた問いだったからだ。
「……人類の敵」
「では、なぜそう思う?」
「なぜって……」
「武蔵坂学園でそう教えているから。あるいは、自分の大切な物を奪ったから。または、自分の仲間の、大切な物を奪ったから。……そうではないかな?」
 海は、言おうと思っていた言葉を先に言われたので焦った。
「それならば穂照君、おおむね正解だ。よくできました」
「……ふざけているんですか?」
「いやいや、模範回答をありがとうと、純粋に褒めているんだよ。
 ところで……君ならダークネスの組織が複数ある事は知っているね?」
「それくらいは」
「そして、組織ごとの目的も同一ではない。ここまでは容易に想像がつくだろう」
 海は答えなかった。
「沈黙は肯定と見なそう。そうなのだ。そして、行動理念もまた違う。人類の敵たろうとするダークネスもいる。大半がそうだ。
……しかし、そうでないものも存在する」
 海はすでに聞き入っていた。しかし、自分ではその事に気がついてはいない。
「結論から言うと私は人類の敵になろうとは思っていない。人類の敵ではないダークネスもいる」
「人類の敵ではないダークネスとは何ですか?」
 そう言ってから海は、あまりにも普通に質問している自分に驚いた。じぶんは、いつの間にかこのシャドウと……会話している。
「いい質問だ、穂照君。これからそれを述べようかと思っていた所だよ。
 私はこう考えている。……ダークネスは人類の進化系だと」
 海は否定も肯定もしない。話を聞く姿勢だ。
「個体として限界のある人類を越えた存在、それがダークネスだ……君なら知っているだろう、人類の分割統治をダークネスが完成させた、と」

  そして1600年代前半。東インド会社徳川幕府の設立をひとつの象徴として、彼らは、複数のダークネス種族による人類の「分割統治」を完成させました。 

 海は武蔵坂学園で教えている、ダークネスの歴史についての知識を思い出していた。
「たとえば江戸幕府だ。江戸幕府が出来る前は朝廷が日本を支配していたわけだが、時間が経つごとに朝廷の政治は腐敗していった。そんな支配体制では人々が幸福に暮らせない……だが江戸幕府の支配のもと人々は幸せに暮らす事が出来たのだ。
 そして東インド会社とて、人間社会に新しい可能性をもたらした……私の言いたいことがわかるか?
 ダークネスには普通の人間に出来ない事が出来、ダークネスの支配は人間社会に利益をもたらす、ということだ。
……どう思うかね、穂照君?」
 海は答えない。
「しかし悲しいかな、人間の不幸を願うダークネスは多い。じっさい、多くのダークネスは人類の敵だ。
 君ら灼滅者が彼らに対抗しようと考えるのも当然の事だ。……しかし、君らには無理なのだ」
 海は眉を潜める。その反応を見て、猫は満足気に語った。
「ダークネスの絶対数がどれくらい居ると思う? 君らより多いか? 少ないか? 少ないということはあり得ない。歴史が違うのだ! 灼滅者という概念が生まれたのはほんの近年、対してダークネスは潜在的には人類の発祥の時から存在していたのだ。
 加えて灼滅者は意図的に生み出す事は出来ない。その上、個体での戦闘能力ではダークネスに敵わない。
 数でも質でも劣るのでは、戦いにならないということはわかるね?」
 ここまで言って猫は、声のトーンを落とし、ここから先は重要な点であることを示した。
「いいかい……ここからが本題だ。

 本当にダークネスに勝とうと思うなら、ダークネスになるしかない。

 いくら数を集めたところで、中途半端な存在である君らでは、せいぜい一握りの人間を救うのが関の山だ。
 それでは対処療法でしかない。根本的な解決にはつながらないんだ。
 武蔵坂学園はむしろ、ダークネス適性の高い人間を集めてくれる、ダークネスにとっては都合のいい機関でしかない。
 ダークネスの支配から人類を解放する、なんてことは、学園にはできないんだよ……」
 ここまで言って猫は、一息ついた。
「そして、正しいダークネスによる理想的な支配のもとで、人々は幸福な生活を送れるのだ……かれらは支配されることを苦痛と思わず、喜びと感じるであろう……。

 世界を導くのは、正しい心と強い力を持った……ダークネスだ。資格ある、ダークネスによる世界の支配……それが、本当の人々にとっての幸せなのだよ。
 穂照君、君も闇堕ちというものを少しは考え直してみてはいかがかな?」
「……」

 なでなで。
 ごろごろ。

「やめたまえ」
「すみません」
 猫も始めは無抵抗で撫でられるのだが、少しすると理性を取り戻して紳士っぽくふるまう。
「僕は闇堕ちというものが、どういうものか知っているつもりです……そんなものを経験して、まともでいられるとは思えない」
「穂照君、ダークネスも君の一部分だ。自分を恐れてはいけないよ。自分の認めたくない所を認めてこそ……本当の自分になれるものだ。もっとも、実際にそれができるものは限られているがね……私は君ならそうなれると信じている。
 さて、ここらで小休止しようか」
 猫はそう言ったきり、ピアノに面している椅子から飛び降りて、ピアノの下に潜り込んだ。
 海はそれを追いかけてピアノの下を覗くが、すでにそこにはいない。ピアノの反対側まで視線を動かしても、姿は見えない。
「どこへ……」
「10分間の休憩としよう」
 ピアノの脚の影からひょっこり顔を見せて、すぐ消えた。
 海はそこに近寄ってピアノの脚の反対側を覗いたが、そこには猫の姿はなかった。
 
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 休憩と言われてもすることもないので、海は部屋から外に出てみた。そもそも、あの猫は何で自分にあんな話をしているのだろうか……シャドウだと自分で名乗っておいて……。
 部屋の外は意外にも、自分の知っている風景だった。今現在住んでいる、吉祥寺の街並みだった。
 街を歩けば、大勢の人が行来している。
 大通りから逸れて、細い路地へと差し掛かった。こういう狭い道を歩くのは、意外な店がひっそりと営業しているのを発見することがあって、好きだった。
 しかし、そんな平和な散策はすぐに打ち切られた。
 突如として暴力的なエンジン音とともに車が前方から突っ込んできたのだ。狭い道とはいえ車道であり、車が通るのは普通の事なのだが、問題はそのスピードと、経路だった。
 衝突音とともに、叫び声があがった。宙を人が舞った瞬間を、海は目にしてしまった。一人を跳ねても車はまだ暴走を続け、さらに二人、三人と轢き、五人を轢いた所で海に迫った。海は慌てて背中を向け、逃げ出した。
 激しい激突音とともに、ガラスが割れる音がした。車は電柱に正面から衝突して止まり、ボンネットから黒煙をあげた。
 周囲からは呻き声や叫び声がいくつも響き、パニックを起こしていた。轢かれた人はまだ生きており、苦悶の表情を浮かべて、天を凝視していた。無事な人達も、ただ事ではなかった。何とかして怪我人を助けようとするもの、電話で助けを呼ぶもの、恐ろしくなって逃げ出すもの、ただ叫ぶことしかできないもの、叫ぶことすらできずに立ち尽くすもの……平和な街並みは、一瞬にして地獄と化した。
「何でだーーーーッ!」
 天に向かって叫ぶ一人の男が、海の目に止まった。16、7歳程の若い男だ。同じ位の年頃の少女が、彼の腕の中で、血を流して動かなくなっていた。
「おまえがいなけりゃ……おれはぁーーッ……ああーーーッ!」
 辛うじて言葉として聞けるか聞けないかというほどの凄まじい咆哮をあげながら、涙を流して頭を振り乱していた。彼の腕の中の少女はそれに応えずに、目を閉じて動かなかった。
「なんでこんなことに……ふざけるなよ……なんで、なんでこんなことに!! 認めない、認めないぞ、こんな世界! こんな世界なんて無くなってしまえばいい!」
 呪いと断罪の言葉と共に、男の体に異変が起きたのを、海は認めた。
 その体から異様な光を放ち始めたと思うと、それは炎となって、男の全身を包み込み、激しく燃え盛った。海は、それに似た現象をよく知っていた。
 ファイアブラッド。
 自分のポテンシャルでもあるファイアブラッドの特徴に、非常によく似ている……だが、違う。
 より、暴力的な炎だ。
 ふいに閃光が起こった。凄まじい衝撃とともに爆音が起こった。炎が車に引火し、爆発したのだ。方々で悲鳴が起こり、場の混乱はさらに増した。
 爆発で車の燃料が飛び散り、辺りは炎に包まれた……その中央で、女を手に抱いて立ち尽くし、天に向かって叫んでいる一人の男……まさに、地獄絵図であった。
 海はこの上無く嫌な予感がしていた。間も無くそれは確信に変わった……自分は今、闇堕ちの現場を目撃している。
 男が叫び声をあげるたびに、それに答えるように炎が燃え広がり、無差別に人を襲っていくので、それとわかった。この男は本当に、世界の全てを焼き尽くそうとしている。
 止められるのは自分しかいない。
「止めろーーーっ!」
 海は懸命に声をあげた。男はまるで意に介さない……海は仕方ないので走りより、その肩に手をかけた。
「邪魔をするなあ!」
 凄まじい腕力で振り払われ、彼の攻撃的意思がそのまま炎となって、海を襲った。
「いま俺は誰の言葉も聞きたくない! ぜんぶ焼くんだ! ぜんぶ!」
「駄目だ! そんな事をしたら、キミは人でいられなくなる!」
「うるせぇよっ! 燃えちまえ!」
「止めるんだ!」
 男はイフリートに変わりつつあるように海には見えた。彼の体を包む炎は、獣じみた暴力的なフォルムに見える。
 迷っている暇は無かった。
「イメ・ミ・エレボス・フィロス!」
 解除コードを口にし、スレイヤーカードのロックを解除する。刃渡り60㎝ほどの解体ナイフが、手元に現れた。
「はぁッ!」
 最大の力を込めて、紅蓮撃を放った。血のように紅く染まった刀身が、獲物を求める。
 右腕を狙ったそれは、過たずに突き刺さった。だが、その瞬間、傷口から炎が吹き出し、海に吹き付けた。
 思わず仰け反った海に、いつの間にか女を手放していた、男が拳に炎を纏わせて殴りかかってきた。
 それは『レーヴァテイン』だったが、自分のそれよりも遥かに強力だ。
 しかし、海の視線がはっきりとそれを捉えた。上半身を前に倒し、直撃を免れる。相手は怒りに任せて一撃を放ったせいで、体制を崩している。海は、そこにギルティクロスを放った。
 衝撃波は海にたしかな手応えを感じさせた。海は距離を開け、二発、三発とギルティクロスを叩き込んでいった。
 成り掛けのイフリートは苦痛に全身を震わせるも、咆哮をあげて掴みかかってきた。海は近づかせまいと足元を目掛けて斬りつける。
 解体ナイフの刃はたしかに目測を過たずに太腿に食い込んだ。しかし、男はひるむことなく、両手で海を掴んだ。
 両掌から凄まじい高温が発され、海の皮膚を焼いていく。敵の体に触れて放つ、至近距離での『レーヴァテイン』だ。
 海は相手の両腕を掴み、退けようとしたが、相手の力が上回っている。このままでは、全身を焼かれて死んでしまうのも、時間の問題だった。
『ダークネスに勝てるものは、ダークネスしかいないのだよ』
 あのシャドウの言葉が脳裏に再現された。その言葉が、実力差を見せつけられることで真実味を帯びてきたように思えた。やはり灼滅者では、ダークネスには敵わないのか……。
 その時だった。突如として、男の頭が視界から消えた。横から凄まじい衝撃が加わり、猛スピードで吹っ飛んだように海には見えた。
 
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「無事かしら?」
 上品な女の声が聞こえた。海は、自分の耳を疑った……その声には、聞き覚えがあったからだ。なぜなら、その声の主を、非常に恐れていたから……。
「マル、グレーテ……」
「あれは貴方の抱いているダークネスのイメージよ」
 マルグレーテがそこに居た。その視線の先には、さっきまで海の両肩を掴んでいた、イフリートのなりかけの姿があった。
頭が四散していた。至近距離から、この美しき女ヴァンパイアのギルティクロスを食らったのだ。
「貴方の場合、私という実例を知っている分、ダークネスの強さをある程度リアルにイメージできていた様ね……でも、本物ほどではないわ」
「どうして、ここに……」
「今に限っては、貴方に用があったわけではないの」
 そう言ってマルグレーテは、海に親しげな笑みを見せた。
「……あの泥棒猫の言うことを間に受けては駄目よ。彼は、ただダークネスを増やしたいだけ。そのために、ある事ない事吹き込んでるにすぎないわ」
「なぜ……そんな事を……」
「あら、ダークネスが人間の心配をするのが可笑しいのかしら?」
 自分でもそれは可笑しいという風に、マルグレーテは笑った。
「ともかく、奴はペテン師よ」
「おやおや……困ったお嬢さんだ」
 あらぬ方向から、大人びた男性の声が聞こえた。だが、声の印象に反して、そこにいたのは一匹の黒猫だ。
「こんな所に何の用だね? 急に隣人愛にでも目覚めたのか、神の声でも聞いて」
「そういう冗談がかっこいいとでも思ってるのかしら? とんだナルシストね」
 マルグレーテはそう言うと、海をかばうように前に立った。
「逃げなさい。私がこいつの相手をする」
「何を……」
「ここは貴方のソウルボード。貴方が望んだ所に行けるわ。
 相手は本物のダークネス、貴方の敵う相手じゃない……」
「何をごちゃごちゃ言っているのかね」
「行きなさい!」
 マルグレーテが海の肩を押した。海は、その勢いのまま回転し、困惑しつつもそのままわき目も振らずに、走った。
「なぜ、彼を逃がすのかね? ダークネスが増える事は、君にとっても損になる話ではないはずだが?」
「彼を私の手で闇堕ちさせられないのなら……いっそ人のままでいてくれたほうがましだわ」
「そうか……彼は君の獲物という訳か……だが、私を怒らせてまで、そうする必要があったのだろうかね!」
 地面が、震え出した。
 突如としてマルグレーテは気が遠くなった……
 
 若干の眩暈とともに、マルグレーテは突如ソウルボードから現実世界へと帰ったことに気づいた。そして、目の前に、闇に閉ざされた空間が存在していることに気づいた。
 ヴァンパイアであるマルグレーテにとって、闇は恐怖の対象ではなかった。しかし、その闇は通常のそれとは明らかに異質だった。明確な敵意をこちらに向けている、質量を持った闇だった。
 そこから、湿り気を孕んだ断続的な破砕音をたてて、脚の多い節足動物のような、長い先端の尖った脚が何本も伸びてきた。続いて円筒状の胴体が姿を現す。どこか巨大な海洋生物を思わせるフォルムだった。胴体のてっぺんに人間の顔をこれ以上無いほどに冒涜的に描いた仮面が乗っており、その真下には、毒々しい赤紫色のハートマークが光を発している。
「貴女がそれを望むのであれば、お相手して差し上げよう!」
 複数の声が喋ったかのような歪な声が、マルグレーテに宣戦布告した。それは穂照・海のソウルボードで対峙したものの声に他ならなかったが、その姿はまるで違う。
 ダークネスであるマルグレーテも、この光景には息を飲んだ。実体化したシャドウと対峙するのは、彼女も初めてだった。
 しかし、彼女はそれに対してひるむ事なく、笑みを浮かべていた。それは、彼女自体が意図したものではなく、自然とこぼれたものだ。
「ほう……何故、笑っているのかね」
「笑っている……私が? そうね、それは、嬉しいのよ……愛する人のために戦えることが」
 人ならざる異形の力。人外の存在となって百年をゆうに越える歳月を過ごしてきた彼女だったが、初めてこの力を誇らしいと、彼女は感じていた。
シグール……。)
 愛する人の名を、彼女は思い浮かべた。
 それは、かつて人であった時の記憶。
 彼の面影が、今の彼女の存在意義だった。
「あなたを、倒すわ」
 異形のダークネスを前に、マルグレーテは雄雄しく宣言した。
「やってみるがいい。貴女ごとき無名のヴァンパイアが、この私に勝てると思わぬことだ」
 
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 海は必死に走った。
 やがて、彼の目には、見知った風景がみえてくるようになった。
 武蔵坂学園・吉祥寺キャンパスの正門が、そこにある。海は死に物狂いで走り、正門をくぐって……学園へと入った。

 そこで、目が覚めた。
「気がついた……!」
 空が見えた。誰かが、自分の顔を覗き込んでいる。自分はどうやら倒れているらしいことに、海は気づいた。
「良かった……穂照さん……」
 同じく武蔵坂学園の生徒らしい少女が、安堵のため息と共に海の胸に崩れ落ちた。周りには同じく安堵する声や、喜ぶような声も聞こえた。
 周りには、同じ依頼を受けていた仲間の灼滅者と、そうではない顔もいた。
 そこは武蔵坂学園ではなかった。羅刹と戦った場所から東京へと戻る道の途中の、崖の下に広がる森だった。

 あとになって聞いた話では、海達が羅刹退治の依頼を受け、出発したあとになって、エクスブレインが一つの予知を受けた。羅刹退治の後、何者かの襲撃が起こる、と。
 慌ててフォローのためのメンバーが編成され、彼等の活躍によって全員が救助された。海が目覚めた時には、すでに全員が救助されていたらしい。
 しかし、襲撃者はいまだ見つかっていないのだった……。
 
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 次の日からは、いつも通りの平穏な学園生活が始まった。

 海は、教室の窓から校庭を眺めていた。六限目が終わり、夕日に染まったグラウンドで、運動部がウォーミングアップを始めている。平穏な、当たり前の学園の風景だ……
 あれ以来、マルグレーテに遭うことはない。灼滅者が会ったという話も、またエクスブレインが予知したという話も聞かない。シャドウについても同様だった。
  
……ダークネスに命を助けられた。それも、自分の家族を殺した宿敵に……。
 それは、何を意味しているのだろう?
 助けられたからと言ってダークネスを許容できるというわけではない。
 しかし、単純に人類の敵と一言で言ってしまうには、あまりにも……複雑だ。

 ダークネスとは……何なのだろう。
 灼滅者とは……何なのだろう。

 海は学園で習ったはずの問いを、虚空に投げかけたが……

 その問いに応えるものは、無かった。


 →マルグレーテという女