否定と拒絶の焔

 夜だった。
 床はフローリングで、壁紙の色は白。どちらにも、ぶちまけたように紅のもので染まっていた。
 鮮血。
 おびただしいそれに囲まれて、女が笑った。
 闇のように黒い衣服、雪のように白い肌、血のように紅い髪。
 端正に整った容姿のその女は、狂気じみた、恍惚の笑みを浮かべていた。
 そして、女に見下されるように1人の少年が床にへたりこんでいた。
 彼は、家族のすべてを、女に殺されたのだ。
 
 
 
 
 
 

 理由はなかった。
 一人でいるのは苦ではなく、逆に誰かといるのが辛い。
 穂照 海は、そんなふうに感じていた。
 身寄りのない彼は孤児院で育ち、小学校に通っていた。不自由ではなかったが、幸福とは言えなかった。彼の中には、常になんらかの憂鬱がのしかかっていた。

 孤児院でも彼は独りだった。
 誰とも一緒にはいたくない。そんな彼に、誰もすすんで関わろうとはしなかった。

 だが彼は決しておとなしい少年ではなかった。ささいなことがきっかけだった――食事中、彼の食事中を乗せたトレイに誰かがぶつかって落としたこと――。海はそれに腹を立てて、ぶつかった少年に掴みかかり、めちゃくちゃに殴った上で、フォークで首を刺そうとした。すぐに職員が集まり、海を止めたが、海は弾かれたようにその場から逃げ出した。
 ある夏の夕方の事であった。

 海は衝動的に、相手を殺そうとしていた。
 自分でも、それがはっきりとわかっていた。
 人を殺すことが悪い事だとわかっている。相手を憎んでもいない。
 だが、殺そうとした。それは確かだった。
 決して認めたくはないことだったが、
「自分は人を殺したいと思っている」
 それは確かだった。

 家族といっしょだったころは、こんなことは考えたことはなかった。人と関わるのも苦ではなかった。学校の友達とも、うまくやれていた。
 変わってしまったのだ。家族が殺されたあの夜を境に。

 
 
 
 

 逃げ出した海は、孤児院の裏山にある小屋で、一人震えていた。
 一人なのは、誰一人として頼れる存在がいないからだ。
 孤児院の子供たちや学校のクラスメイトは、みんな冷たかった。自分から積極的に仲良くしようという気になれない海を、多くの子供は、"敵だ"と思った。そして彼自身もまた、そう思った。
 孤児院の大人たちは彼を問題児としてしか見なしていなかった。事実、周りからはそうとしか見えなかった。
 そして、あの事件である……。
 誰からも理解されることは、ない。
 自分が本気で人を殺そうと思ったなどと。

 理屈ではなかった。
 衝動だとか、欲求と言ったほうがしっくり来る。
 食べたいとか、寝たいとかと同じように、命を奪い、生き血を啜りたいと思う。

 それは異様なことだと思う。
 頭ではわかっていた。
 それを認めてしまったら、自分は怪物になってしまう……。

 父や母、弟たちを殺したもののように。

「だが被害者のままでいるよりは、加害者になったほうがいい」
「やられる前にやらないと。この世は敵だらけなんだから」

 今、そんなことを本気で考えているのも、事実だった。

 自分は人間でいたいのか、怪物になりたいのか。
 それがわからなくて、苦しんだ。

 このままじっとしていれば、やがてどうでも良くなって、欲求のままに人を傷つけてしまうようになるだろう。
 そうすれば、楽にはなれるのかもしれない。しかし、その選択は何もかも失った自分に、ただ一つだけ残った大切なものを、失うことのように思えた。

 選ぶならば、今しかなかった。
 
 
 
 
 

 この小屋は主に孤児院にある暖炉のための薪を保存しておくための物置小屋なのだが、それ以外のものも保管されている。
 ずっと考えていた。この小屋には、石油ストーブに使う灯油がある。
 物置小屋は木で建てられた年季の入ったものだ。
 だから、もし火が着いて、中にいたら死ぬしかない……。
 
 海は、選んだ。
 
 内側にも外側にも灯油をまき、特に扉には念入りにかけた。
 逃げることができないように。
 そして自分は中に入り、物置から見つけたマッチで、火を着けた。
 己の残酷な欲求を、否定するために。


 黄昏の空に小屋は赤々と燃え盛った。
 小屋の中にいる彼の視界は、すぐに緋色の炎に包まれ、呼吸が出来なくなった。
 火を前にした時特有の興奮とともに、計り知れない恐怖が彼を襲った。だが逃げ場はない。自分でなくしたのだから。やがて覚悟を決め、小屋の中でうずくまって、目を閉じた。

 
 
 
 
 やがて……
 
 
 
 

 気づいたら、知らない部屋にいた。
 そんなはずはなかった。
 たしかに自分の肌は火に焼かれた。呼吸も止まった。生き残るはずは、ない。

 だが、自分の体を見てみても、火傷の跡すらない。
 事態がつかめなかった彼のもとに、白衣を着た一人の中年の男が現れた。
 そして、こう言った。
「君が生き残った理由は、君自身の力によるものだとしか説明がつかない」

 その男はなおも語った。
 あのあと小屋の火はどうやっても消せずに三日間燃え続けたこと、この世界の本当の姿こと、『ダークネス』のこと、『闇堕ち』のこと、『サイキック』のこと、『灼滅者』のこと……。
 そして、武蔵坂学園のこと。
 男が言うには、海は灼滅者であり、武蔵坂学園に通うことを勧められた。海自身にその気があれば、手続きはこちらでしておくとも。

 海はその提案が魅力的なものであると思えた。
 自分にはもう居場所がないのだから。
 そして、不思議なことに、自分の中にある殺人欲求が消えていたことに気づいた。
 まるで、あの燃え盛る炎によって、それが焼き尽くされてしまったかのように。
 炎といえば、もう一つ奇妙な感じがあった。小屋に火を放ったあの時、ひどく恐怖していたというのに、今はあの光景を思い出しても、まるで恐怖しないのだ。あの時見た、大きく力強いあの炎、自らを焼き尽くしたはずの炎が、今は自分の中に息づいている。そう思えたのだ。

 まるで理解出来なかった。
 しかし、今は何の重荷も感じず、すべての事から解き放たれ、新しい世界に生きているような、そんな気分がしたのだ。

 生きていたい。
 家族を失ってから、はじめてそう思えた。

 自分の居場所を作るために。
 彼は決断した。